清香園三十五年
- The highest holy place of yakiniku BBQ-
The highest holy place of yakiniku.
焼肉の最高聖地を訪ねたのはいまから十七年前。その最高聖地が三十五年を迎える。私は肉さへあれば後は要らないほど肉好きであるから、週に七日焼肉、ステーキでも苦にならない。却ってその方が有難い。
これまで機会を得ては、世界各国の店に足を運んだ。分けてもL.A.では『まんぷく』『鶴橋』『たまえん』『ととらく』を始め、コリアタウンは『スップルジップ』『チョソン・ガルビ』『又来屋』『ケソン』『チルボ』などなど数多に及ぶ。しかし必ずこの焼肉の最高聖地へ戻ってくる。
焼肉については五年前に次のように記した。
「今を遡ること三千五百年前。西暦前1512年に書かれた、神の律法の書である『レビティカス』にそれは初見される。神への焼燔の捧げものとして牛、羊、山羊、鳥類が有り、それを祭壇にて焼くことこそ、「火による安らぎの捧げもの」又は「神にとって喜ばしい煙」と記されていることからも、神にとっては肉を焼くその香りが最も喜ばしいもの、是認されるものであるということだろう。そういう意味でも、焼肉が神にいちばん近い食、或は神が最も歓ばれる食であるからこそ、通常の五味ではなく、七味。詰まりは、香りが加わるのだろうと手前勝手だが念っている。この肉を焼いて食べる食営が、東西南北に伝はり、モンゴルから中国そして韓半島から日本へ。欧州から大洋を渡って新大陸へ。そして精緻された日本或は韓国のそれが大洋を渡り西海岸へ。焼肉は恐らくだ
がこのロサンジェルスが、焼肉史であるならその最期の邂逅場となったのではないかとさへ感じる事が多い。その中でも、焼肉の原型を留めるお店が、清香園である。このお店を訪ねたのが今から十年余前。その「清香」という名を目にした時と、店内の噎せ返るような煙の中の香りの味わいを感じたとき、僕は神の五巻書。つまり先ほど挙例したペンタチュークの一節を想起した
のだった」
それは恰も儀式のようでさえある。
「コンロは昔懐かしいガスコンロ。油を塗った鉄板を観れば、それだけでも歴史が眼の中に飛び込んでくる。薄くなりつつ四方の角が丸みを帯た鉄板をして、そのなあまめかしい照りがまたぞろ、『喰うゾッ!』という元気さへの添加剤のようだ。商用の会合、友人知人、家族連れ、カップル───。香りがそうさせるのだろう、凄い賑わい。ここでまたしても考える。ほんらい煙は人が忌むものである。寺院で「頭がよくなるから」と焚香を撫で付けられるあの煙さへ、そこには凝っとはしていられない。しかし、焼肉屋の煙香には誰も平気である。とはいっても、その香味が佳いからであって、名は避けるが、同じ煙であるにも関わらず、辟易する店もあるのだから、その煙の基、即ち肉とタレと火という三位一体が完璧であるからこそのこの店の味だといえるのではないだろうかと念うのだ。であるこからこそ今宵も人々は清い香りに吸い寄せられてゆくのであろう」
このコンロには話がある。「おかあさん」はコンロをあたらしいものに替えようとしていた時期があった。私が日本に注文し届けたものを試した時期があったのだったが、やはり私が見ても座りが悪い、勝手が悪い。また最高聖地のなにもかもが神が宿っているようななかに真新しいコンロは違和感を醸し出しているばかりであった。そしてやはり往年のコンロが復活したのだった。大宴会テーブルのコンロにはそのようなはなしがある。たの家族席のコンロの鉄板は、三十五年の永い歴史のなかで、どれもこれも鉄が減っている。しかし不思議なことにある程度まで、これ以上はというところで鉄が減らない。この鉄板も味わいを加えていると味覚が感じる。
なにもかも変わるなかでなにも変わらないということは奇跡に近い。しかしそれは奇跡ではなく不断の意力のようにおもう。味は落ちたことがない、肉質も落ちたことがない。タレも盗もうと他業者が覆面してやってきても盗み様がない───。三十五年というのは、人間にはなにが可能を示す、経営の聖地でもあると私は念っている。亡き豊田章一郞氏が舌鼓を打ったのも、この焼肉の最高聖地が、いまはもうどこにも見出すことが難しい経営の本領を丹念に丁寧に営んでいるという味わいを楽しむためだったと私はおもうほどだ。
「運ばれて来る熱々のおしぼり。昔はどの店もおしぼりは自家製だった。一日が了れば家に持ち帰り、ブリーチし洗濯しそして一つ一つ巻いたもので、こういうお店はもう稀少である。その自家製の温かさに先ず僕はマナー破りではあるが顔をそして手に宛てる。それがまた心地好い。そして用意された前掛けをし、メニューを開く」
「ビールを頼めば、コンナムル(もやしのナムル)に、タレ各種が供される。塩ホルモン、塩ミノ、そして塩ハチノスの臓物三種は、にんにく肉味噌を駆使するのだが、にんにくの新鮮なる辛さが、眼に涙を浮かぶのを堪え、そして引いていく快感に嵌まったならば、もう焼肉有段者だろう。ビールのつまみに、生にんにくを店特製の肉味噌につけて一口やるのが別なる秘悦」
「肉の構成もすべて、焼肉の文法になるものであって、味わいについては本駄文で申し上げるより諸賢が知悉されているに違いない。ただ一言附するなら、〆に相当するコブクロが絶品であることだ。艶かしい色合の細長きコブクロを鉄板に載せる。火によって観る見るうちに変化しながら、パンパンと破裂の音がしてくる。そう、焼肉の音は、ジュジューだけではないのである。コブクロの破裂音が、七つ目の音という味覚なのである。口中に入れればコリコリのあっさり。元来、焼肉の〆はこれであった」
我が家の作法は、先ず麦酒にキムチとコンナムルでいっぱいやり、生ニンニクを肉味噌で絡めてやる。塩モノ、タレと進むうちに、箸休めに豚足を酢味噌でやるころに焼酎に替え、そして味噌もの続く。日本の焼酎は焼肉の大部分には合うのだが、このコブクロには合わない。その理由はわからないが、ソジュに切り替える。〆のごはんは私はもうたべれなくなった。そこまで胃袋は行けない。
「そして最後に、ガス釜で炊いたごはんに(L.A.でほかほかの湯気立つごはんが出てくるのはこの清香園のみである)、韓国のり、そして「おかあさん」特製の大盛りキムチの残りで、一気呵成に食べることの嬉しさ。そしてこれは翌日の愉しみなのであるが、多めに頼んだ焼肉をたっぷりと焼き上げ、熱々のごはんに載せ、特製タレをかけまわすお弁当が圧巻であり、日本から来られる客人にも帰国の際に持っていただいていて好評を博しているほどの、このお店のまたの愉しみなのである。とうもろこし茶の飽きない暖かみのなかのほろ甘さに浸って、時計を見やれば午後十時過ぎ」
いつしかからか焼肉弁当を世界からやってきている苦学生に届けるのが娯しみになった。なぜ娯しみかというなら彼らの笑顔がおいしいからである。だから肉は多めに頼み、焼肉弁当をこしらえる作業に30分ぐらいはかかる。我が家の副官はその英才であって、これが実に丁寧にこしらえる。この弁当で、私の知己とスチュワーデスさんの縁を取り結んだこともあるほど、この焼肉弁当の味にはある。
なにひとつ変わらない焼肉の最高聖地。このU・S・Aにおいてどれほど清香園が稀有な存在であるかは、U・S・Aにお住まいの方なら誰もが聞いたことがおありだとおもうが、そのなにひとつ変わらぬ清香園に、新しさが加わった。シトローエンのエンジンが熟成させていくなかに新機能をひっそりと目立たぬように装填するように───である。
それが、いかの燻製の和え物。三十五年目にして加わった新しさなのだが、これもこの最高聖地にかかると以前からあった感のほうが強い。これでは麦酒もめしもまた進んでしまう。
焼肉の最高聖地はまだまだ覇気と不断さで私たちを迎えてくれるはずだ。
SEIKOEN BBQ
1730 West Sepulveda Bl #14
Torrance, CA 90501
(310) 534–5578
月曜休・予約が可い